第5章 ── 証拠と、人質

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ソルジャーFCを辞めた後、私の手元には一枚のカードが残されていた。『JFA 暴力等根絶相談窓口』への通報だ。

決定的な証拠動画はない。けれど、私の記憶と息子の証言はある。そして何より、現場には何十人もの目撃者がいたはずだ。チームメイト、その保護者、相手チームのコーチや選手も。

私は息子と仲間から聞いたハラスメントの事実を整理し、JFAの投稿フォームへ入力した。

しばらくして、隣県のクラブ連盟を名乗る担当者から連絡があった。JFAから調査指示が下りてきたらしい。面談の日程を調整し、私は洗いざらい話した。担当者は真摯に耳を傾けてくれた。

「同じサッカー界にいるものとして、この実態はひどい」

そう憤り、こう続けてくれた。

「同じ地域にいるからこそ、試合中の様子も見ています。あの監督ならやりかねないという感覚はある。他チームの指導者として、その心証も付言します」

ひと月ほど経った頃、連盟からフィードバックしたいと連絡があった。電話口の担当者の声は沈んでいた。

「理事会で報告し、ソルジャーFC側にも聞き取り調査を行いました。しかし……」

向こうの主張は、予想通りだった。

「『うちではそんな指導は一切していない。あちらの勘違いではないか』『暴言など、むしろ若いコーチたちに絶対するなよ、と苦言を呈している立場です』。そう主張しています」

しらを切るつもりだ。担当者は申し訳なさそうに続けた。

「実は、この県はこうした問い合わせが全国でも最も多い地域の一つなんです。ソルジャーFCに対する告発も少なくありません。だからこそうやむやにしたくないのですが、相手が否定している以上、これ以上踏み込むには客観的な証拠が必要です。当日の記録か、他の選手や保護者の証言をもらえませんか」

客観的な証拠。

チームの異常性は「数字」を見ても明らかだった。毎年30〜40人が入会するこのクラブで、息子の代は卒団時に半分以下になっていたという。一つ上の代も同様だ。3年間で半数が辞めていく組織。それはもはや育成ではなく、壊れなかった選手だけを残す選別だ。それでも「強豪高校とのつながり」という光だけが宣伝され、「半分が辞める」という事実は伏せられる。新しい入団希望者は後を絶たない。この歪な構造こそが、指導者が変わらない最大の原因だった。

「結局、耐えられなかっただけだろう」「理不尽を越えていかないと強豪には行けない、プロにはなれない」。そういう声があることは知っている。かつての私自身も、どこかでそう思っていた節がある。だから反論する。

30年前後の歴史を持つこのクラブから、プロになった選手は2人だ。1人はまだ街クラブも少ない時代に、強豪高校・大学を経由してJ2に進んだが、数年で国内のプロキャリアを終えた。もう1人は身体的なアドバンテージを持つ選手で、高校・大学・社会人で育てられた末にJ3に辿り着いた。

毎年30〜40人を入団させ、半数を潰しながら、30年前後で2人。しかもその2人は、このクラブではなく、その後の環境で開花しているとも言える。理不尽に耐えた「強い子」がプロへの道を歩んでいるなら、その論理は成立する。だが現実はこれだ。壊れなかった子が残り、壊れた子が消えていく。それを「育成」と呼ぶのか。

指導者の怒声で伸びた選手を、私は見たことがない。恐怖で従わせた先に育つのは、萎縮した体と、指示待ちの頭だけだ。

──それでも、証言となると話はさらに複雑になる。

その言葉を聞いた瞬間、脳裏に浮かんだのはチームメイトたちの親の顔だった。

「うちは勉強じゃ無理だから、サッカー推薦で高校に行くしかないのよ」
「監督に気に入られないとベンチ入りすらできない。なんとか機嫌を損ねないように必死なの」
「なんとか特待でねじ込んでもらって授業料おさえられないかな……」

かつてグラウンドの隅で聞いた、母親たちの嘆き。このチームにいる多くの選手にとって、監督は単なる指導者ではない。高校への推薦枠を独占的に握っている、生殺与奪の権力者なのだ。

妻が信頼できそうなチームメイトの母親に、今回の告発を軽く話したことがあった。反応は拒絶だった。

「その話には関わりたくない」

冷たいのではない。怯えているのだ。もし深い調査が入れば、監督は逆上して犯人探しを始める。疑念の矛先は、チームに残っている子供たちに向かう。証言した側の選手は報復を受け、進路という命綱を断ち切られる。

巻き込めない。

なりふり構わず戦えば、ハラスメントを認めさせられるかもしれない。でも、その代償として息子の仲間たちの未来を焼き払うことになる。安全圏に逃げた私たちが外野から石を投げて、彼らの乗る泥船を沈めるわけにはいかない。

「記録はとれていません。今チームに残っている保護者に証言を求めることも……難しいと思います」

「そうですよね……」

状況を息子にも共有した。悔しがる私に、息子は静かに言った。

「仕方ないよ。残ってるあいつらにはあいつらの戦いがあるんだし、邪魔はしたくない。俺はもういいから。もうサッカーしないし」

証拠がないこと。そして推薦という人質によって周囲を黙らせていること。その二重の壁に守られ、彼は今日もグラウンドで怒鳴り散らしているのだろう。

私は、息子の尊厳を取り戻したかった。気心知れた仲間とサッカーをもう一度やらせてあげたかった。それだけだった。

この連載は、実体験をもとにした記録です。特定の個人・団体を指すものではなく、同様の状況で悩む方の判断材料として公開しています。※人物名・団体名・一部の設定や表現を変更・脚色しています。

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この記事を書いた人

教員免許(中高保健体育)を持つ40代の元サッカー指導者。自身もトレセンにひっかかるくらいには経験があり、大学ではサッカーの試合における”流れ”をテーマに研究。息子がジュニアユースでプレーしたことをきっかけに、首都圏のJ下部・街クラブ・中高サッカーを徹底調査。その備忘録として本メディアを開設。