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Aコーチが去った後のグラウンドに現れたのは、まだあどけなさの残る二人の青年だった。どちらもチームのOB。一人は大学生コーチのB、もう一人は本職はキーパーコーチのCだ。
「若くて話しやすい兄ちゃん」 最初の印象は悪くなかった。しかし、そのメッキは瞬く間に剥がれ落ちた。
まず、大学生コーチBがわずか2ヶ月で姿を消した。 彼は選手たちの前で、自分たちが仕えるはずの監督への不満を隠そうともしなかった。
「あいつ(監督)は最近のサッカーをわかってない」
「どうせ最後は『蹴れ』『戦え』になるから、今教えてることも意味なくなる」
「まともな人はあいつと合わないから。実態わかってるうちのOB以外、コーチは続かないよ」
そう吐き捨てていた彼は、ある日突然来なくなった。辞めた理由すら説明されなかったが、無責任な大人の背中を、子供たちは冷めた目で見送った。
残されたキーパーコーチCの指導力不足も深刻だった。 彼は教科書通りのビルドアップを導入しようとしたが、フィールドプレーヤーとしての視点がないからか、指示が具体的ではない。
「そこじゃないだろ!」
「何回ミスるんだ!」
「ちゃんとつなげよ!」
結果論で怒鳴るばかりで、「どこに出すべきか」という具体的な指示は聞こえてこない。結局、彼らの指示でうまくいったシーンなど一度も見たことがなかった。Aコーチの時代は関東リーグ所属のチームとも対等に戦えていたのに、コーチが変わった途端、格下のチーム相手でも失点は増え、得点は少なくなっていった。
だが、無能であることよりも深刻だったのは、その歪んだ人間性だ。 ある日、チーム内で奇妙な噂が流れ始めた。
「あいつ、Cコーチから新しいスパイクもらったらしいよ」
特定の数人の選手に対する、あからさまな「依怙贔屓(えこひいき)」が始まったのだ。練習のない日に遊びに行ったり、夜な夜な長電話をしたり、食事を奢ったり。大半のメンバーが電車で試合会場に向かう中、自身の車で会場まで送迎したり。
コーチと選手という境界線を越えた、気色の悪い距離感。当然、試合ではその「お気に入り」たちが重用される。
息子はそういう空気を嫌い、自然と距離を置いた。 ある日、息子が「メンタルブレイクって何?」と聞いてきた。どこで覚えたのかと尋ねると、なんとCコーチからの言葉だという。
「お前は可愛くないな。……メンタルブレイクさせられないからなー」
耳を疑った。指導者とは選手のメンタルを支え、強くする存在のはずだ。少なくとも私たち親子には、選手を精神的に追い込み、強い依存関係を作ろうとしているように見える言動が続いていた。 そしてあろうことか、彼は選手を追い込んで泣かせた様子などを、他のチームメイトに吹聴していた。
このチームの根底にある腐敗臭が、隠しきれないほど漂い始めていた。
***
組織としての異常性も表面化してきた。
息子を含む数人が、その地区のトレセンに選ばれ続けていた。本来ならチームにとっても悪くないことのはずだが、ソルジャーFCの論理は違った。
「今週末、練習試合が入ったからトレセンは休め」
Cコーチ、そしてその背後にいるO代表監督からの指示だった。公式戦ならまだ分かる。ただ直前に入った練習試合のために、成長の機会であるトレセンを断れというのだ。その日は県トレセンの選考会も兼ねていると連絡が来ているはずなのに。
「練習試合に来ないなら、今後スタメンはないかもしれない」
と匂わせながら。そして、自分でトレセンコーチに連絡しろ、と突き放す。
「休む理由はどうすればいいですか? 『チームの練習試合がある』と伝えればいいですか?」息子たちが聞くと、彼らは平然と言い放った。
「練習試合だとは言うな。『家庭の事情』とか適当に言っとけ」
組織の利益のために、子供に嘘をつくことを強要する。息子の目の中に、少しずつ「よどみ」が溜まっていくのを私は感じていた。それでも息子は、チームメイトとの絆やサッカーへの愛情だけで、なんとか踏みとどまっていた。
そして迎えた試合当日、あまりにも皮肉な現実が待っていた。 対戦相手のアップを見ていると、明らかに主力選手が数名いない。いつもトレセンでともに切磋琢磨していた選手が見当たらないのだ。
「あれ、10番いないね」
息子が試合中にマークについた選手に呟くと、相手チームの選手が事もなげに言った。
「ああ、あいつらは今日トレセンの日だから。そっちに行ってるよ」
愕然とした。 相手チームは、当たり前のように選手の成長(トレセン)を優先し、快く送り出している。 一方こちらは、「家庭の事情」などという嘘をつかされてまで、主力不在の相手との消化試合のような練習試合に縛り付けられている。
この差は何だ。 「選手のため」など微塵もない。あるのは大人の「支配欲」と「チームの都合」だけ。 その歪んだ事実は、息子にとって言葉以上の絶望として深く突き刺さった。
それに追い打ちをかけるように、息子の体も限界を迎えていた。
ありがたいことに実力を評価され、自分の学年(U-14)だけでなく、ひとつ上の学年(U-15)の試合にもスタメンとして呼ばれるようになっていた。
「上の代でも出られるなんて凄いじゃないか」
最初は私もそう思い、喜んでいた。しかし、実態は違った。
平日も週末も、両方のカテゴリーの練習と試合にフル稼働。カテゴリー間で連携が取れているわけでもなく、「午前中はU14で練習、午後はU15の試合」などで酷使される日々。
気づけば、オフ(完全休養日)は消滅し、週7日サッカー漬けになっていた。成長期の体にとって、負荷が大きい状態だったと思う。
当時の私は「コーチたちが期待してくれているんだから」と、その異常性に気づくことすらできなかった。
息子は、ただの「便利なコマ」として消費されていたのだ。今振り返ると、そう扱われていたようにしか思えない。当然、普通にプレーし続けられるわけがない。
膝は慢性的に痛みを抱えテーピングしなければ動かせず、練習し過ぎで腰椎分離症にもなった。医師からは「しっかり休んで治しなさい」と言われたが、チームは長期離脱を許さなかった。
「痛くても走れるだろ」「お前が抜けると困るんだよ」
痛みを抱えたまま、練習と試合が続いた。
***
中学2年の冬。ついに「ラスボス」が動き出した。 1つ上の代の高円宮杯が終わり、自分たちの代がトップチームになる直前のことだ。
「来年からは、俺が直接指揮を執る」
チームの全権を握る代表、O監督の宣言に、グラウンドは凍りついた。それまでのコーチたちとは格が違う威圧感、怒声のボリューム、そして絶対的な独裁体制。
さらに絶望的だったのは、彼が掲げた戦術だった。
「俺のサッカーは、勝つためのサッカーだ」
そう言って始まったのは、とにかく前へ蹴るサッカー。後ろから蹴り、フィジカルの強い選手を走らせるいわゆる「縦ポン」だ。練習内容もガラッと変わった。フィジカル、走力、キック、球際の奪い合い、競り合い…。
週末の練習試合には必ず大型のタッパー弁当を持ってこいと言われ、ごはんの量もチェックされた。少なければ追加分をコンビニに買いに行かされる。そして、すべて食べ切るまで試合に出させてもらえない。
足が速くフィジカルもある息子は、対戦相手に合わせてトップやボランチ、センターバックとして起用されたが、その役割は悲惨だった。
センターバックにいれば裏へ蹴るだけ。ボランチやインサイドハーフにつけようとすると「いらない。蹴れ!」と怒鳴られる。前線でおさめてターンしようとすると「余計なことするな。おさめて落とすだけでいい」と怒鳴られる。
ボランチにいれば、頭上を越えていくボールを見上げて、前に後ろにシャトルランを続けるだけ。 かつて磨いたドリブルも、アイデアのあるパスも、味方との細かな連携も、ここでは勝利を邪魔する「ノイズ」として封印された。
「……つまんない」
帰りの車で、息子がポツリと漏らす回数が増えた。 チーム全体に対するO監督の罵声は日に日にエスカレートしていった。
「できねーやつは来なくていい。帰れ」
「口答えすんな。しばくぞ」
「使えねーな。チームにいらねーよお前」
練習時にも試合時にもまき散らされるこれらの罵声。私には、指導というより、威圧的な言葉による統制にしか感じられなかった。
今思い返せば、崩壊のサイン(予兆)は家庭内でも出ていた。
かつては明るかった息子が、常にだるそうにリビングで横になるようになった。些細なことでイライラし、家族やモノに当たり散らすことが増えた。「眠れない」と、深夜にベッドの上で座り込んでいる日もあった。
そして何より胸が痛んだのは、テレビや街中で大人の男性の怒鳴り声(大きな声)が聞こえると、反射的にビクッと体を強張らせるようになっていたことだ。
心はもう、悲鳴を上げていたのだ。
そして中学2年の1月。ついに、息子の心の糸が「プツン」と切れる運命の日がやってくる。

